検索汚染日記

読書とかお笑いとか日頃の愚痴とか面白いと思うものについて書きます。お気持ち表明ブログ。せっせとネットの海を汚します。

仕事を辞めてから何もしていない

 1月末に会社を辞めた。それから何も求職活動らしきことをしていない。雇用保険の申請もしていない。ハローワークが大嫌い。やったことと言えば保険の切り替えと、ちょっとやりたいことがあったので、パソコンに入っているAdobeのソフトを使えるように更新したことぐらい。

 世間では新型コロナウィルスが流行して大変な騒ぎになっている。熱が出ていないのでコロナではないと思うが、私も2月下旬は体調を崩したので一週間ほど念のためほぼ自宅に籠って過ごした。まあ実のところ求職活動をサボる言い訳にしていただけなのだが…。

 

 コロナと言えば、私はツイッターが好きで依存症みたいになっているので一日に何時間も見るのだが、最近はコロナの流行のせいでマスクの転売がどうだの、トイレットペーパーの買い占めがどうだの、思いつきによる全国の学校への休校要請を始めとした安倍総理のダメダメな仕事ぶりの話だのばかりで、見ていると気分が落ち込む。

 しかし求職活動も勉強もせず、安全圏に籠って日々をダラダラ過ごしている自分にはそんなことを言う資格はないのかもしれない。安倍総理は好きではないし擁護する気も信奉する気もないが、そもそも働いてすらいない自分に、一応働いていることになっている安倍総理の仕事ぶりに対してとやかく言う資格もないのではないか。

 このブログも検索汚染と時間の無駄にしかならない。毒にはなるが薬にはならない。ただ「何かをやっている感」を満たしたいだけ。安倍総理と同じようなもの。「やっているフリ」をしているだけ。自分も働いている当時は「やっているフリ」をしていただけだった。誰かの励ましにも、自分への励ましにもならない。自分は一体何をしているのやら。何のために生きているのやら。

 

 

 話を変えるが、『罪と罰』、『カラマーゾフの兄弟』で有名なドストエフスキーの作品に、『地下室の手記』というものがある。役所勤めの男が、親戚の遺産を相続したのを機に仕事を辞めて、自宅の地下室に籠って手記を書いて生活する…それも出版するためでなく、「人間には労働をしていなくても、何かしらの『仕事をしている感じ』が必要であるから」というような理由で書いている。

 あとはその男がどんな人間だったか、職場の人間とどんな関係だったか、同窓会か何かの時に出会った娼婦と何があったかとか、そんな感じのことが書かれていたと思う。太宰治とかカフカの作品によくありがちだけど、自意識過剰というか…余計なことを考えすぎてて生きてて疲れないのかな…と思うような内容だった。少なくとも明るくなれる話ではない。

 正直その作品を読んだのは数年前で、読み返したり読書ノートをつけたり、熱心に読書に取り組む方ではないので、不幸にもこの記事にたどり着いてしまった皆様に対して、正確なあらすじをお伝えすることも、作品の魅力をお伝えすることはできない。伝える気もない。

 ただ、今なら少しその作品の主人公の言っていることがわかる気がする…だから書きたかっただけである。

 

 しかし自分はその小説の主人公と違って、いつまでも安全圏に籠ってはいられない。貯金が減り、時間だけが過ぎて空白期間が長くなり、体力も衰え、やる気もなくなり、家族の視線も冷たくなっていく。

 現状、「仕事をやっているフリ」で会社に寄生していた人間が、「何かをやっているフリ」に逃げているだけである。

 どうすればいいのか、答えは出ている。働かなければならない。何ひとつ人並みにできることはないが、何とかして働かなければならない。もう今年で26になるのだから、「自分のやりたいことは何か」とか、「自分にできることは何か」とか、夢や妄想に逃げず、厳しい労働環境に身を置いて泥水をすする以外に選択肢などあるわけがない。

 どうせ何をしても無駄なのだから。今から何を始めたところで。独学でも学校に通うのでも、どうせ自分は逃げる。そんな風にしか考えられない。

 でももうしばらく逃げていたい。クズだから。逃げることができなくなるまでひたすら逃げて、ボロ雑巾のように使い潰される未来しか待っていないところまで逃げる。そして死ぬ。それしかない。

 親の期待には応えられない。恥ずかしくない、安定した会社でコツコツまじめに働くという期待を親は抱いている(と私が勝手に想像している)。

 大学まで行かせてもらったのに今まで何も学ばなかった。結果何もできない、人に迷惑をかけるだけの汚い人間になってしまった。そんな人間が今更何をしたところで無駄。「自分のやりたいこと」なんて、考える資格すらない。自分を信じられないのに、親に期待されるのは嫌だ。

 別に親を恨んでいるわけではない。衣食住足りて、何不自由なく育ててもらったし、それなりにやりたいことをやらせてもらってきた。感謝こそすれ、恨むことなど何もない。頭が悪くて、そのうえ癇癪持ちで扱い難いことこの上ないダメ人間な私に対して、よく手にかけることなく成人するまで養ったものだ、と思う。母も割と感情的になりやすい方の人間ではあるが、それは私がダメな人間だったことが全ての原因なのだ。

 世間…特にSNSを見ているとよく「毒親」なる言葉を見かける。人格が捻じ曲がっている私はついその手の話に共感してしまいそうになるが、それは逆恨みでしかない。私の場合は私自身が「毒子供」だった。

 ただ自分が悪い。でも死ぬこともできない。ごめんなさい。