「やりたいことがない」ということについて考えてみる。
どうもチョビです。
普段からやる気がないのに日曜日はさらにやる気がなくなるので少し苦手です。
今日は、「やりたいことがない」ということについて書きたいと思います。
読んで下さった方に教えるためというより、自分の考えを整理するために書きますので、読んでも皆様のためにならないと思います。ご了承下さい。
【目次】
なぜ「やりたいことがない」ということについて考えるのか
やりたいことがないからです。本当に何にもやる気がないのです。信念も目標もない。何もできない。
就活がうまくいかず、親や企業の方、同級生に「やりたいこととかないの?」と聞かれました。
うまく答えられたことがありません。「ない」と言ってきました。
みんな何も悪気があって私のことを否定しようとか、傷つけようというつもりで言っているわけではないことはわかっています。むしろ、私のことを心配して少しでも助けになればというつもりで言ってくれているのでしょう。
そんな問いかけに対して私は真剣に考えず、自分にも、自分のことを心配してくれている人にも向き合わず、「簡単に"やりたいことないの?"なんて言いやがって…」と、煩わしさすら感じていました。
とても失礼なことですね。でも私はそんな風に考えてしまったのです。
それではいけないと思いました。
どうしてやりたいことを答えられないのか、本当にやりたいことがないのか…。それを考えようと思ったのです。
ちなみにここで言う「やりたいこと」は、「やりたい仕事」とか、「信念やこだわりを持って打ち込みたいこと」というなどのことです。
なぜ「やりたいこと」がないのか?
私は、働いたことがありません。だから、「やりたいこと(仕事)」や「働く上で大事にしたいこと」なんて聞かれても答えられませんでした。
それ自体はそんなに悪いことではないでしょう。そもそも、それを見つけるために就活をするのですから。「就活はやりたいことよりも何ができるかで探せ」という人もいます。
働くイメージが湧かないなら、どんな業種や職種があるのかインターネットや書籍で情報を集めて、インターンシップや会社説明会に参加して社会人の人たちと触れ合って多くのことを知ろうとするなどの行動が必要です。
わからないならわからないなりに努力するしかない。
みんなそうしていろいろ考えて、自分にできることとすり合わせて見つけていくのです。それが当たり前です。それを私は言い訳して逃げた。努力を怠った。他でもない自分のせいです。つい人のせいにしがちですが、結局自分が悪いのです。
それを今更確認してわかったところで遅い。そして、「わかっている」というだけで満足してはいけない。
「やりたいことがない」とは言いますが、何も全くやりたいことがないわけではありません。こうして自分のことを書くのは好きだから、自己満足のためとはいえブログを書いているわけです。
「やりたいこと」を聞かれて、例えば「ブロガーになりたい」とか、「芸人になりたい」とか、具体的でなくても「文章を書く仕事」、「人を楽しませる仕事」などと言うことはできます。
それ自体は悪いことではないでしょう。
しかし親に聞かれた場合は、そういう曖昧で非現実的で身の丈にあっていないことを答えとすることはできません。親は私の嗜好や過去のマイブーム、性格などから「公務員はどうか」、「司書はどうか」、「医療事務はどうか」などと聞いてきました。
親は、「現実的で、安定した仕事という答え」を求めているのですから、先ほど書いたようなことは「やりたいこと」の答えとして適切ではありません。
だから聞かれたときは答えられなかった。
そして、「俺のことを過信するな」とか、「何も知らないくせに」とか、「期待するな。イメージを押し付けるな。」と、反発する気持ちばかり出てきました。
もう子供じゃないのに、こんな考えしか持てなかったことが恥ずかしいです。
それらの仕事をやりたくないわけでも興味が全くないわけでもなかったですが、そういう人の忠告を無視し続けた。私は私の人生について、そして働くということについて考えなかった。現実を見なかった。
そして夢をみることはおろか、真剣に安定した仕事について考えることも自分で放棄してしまったのです。
そして、「現実的にやりたいこと」どころか、「できること」がない。
「自分は何もできない。そして何もして来なかった。今までがそうだったのだから、これからもそうに決まってる。今までダメダメで人に迷惑かけてきたくせに自分のやりたいことを考える権利なんかない。」そう自分に言い聞かせています。
「仮にこんな自分にやりたいことがあっても、企業の人にもどうせわかってもらえない」とも思っています。
しかし、そんな考えは、ただ自分が無能だからと諦めて、「自分よりできる人間」をダシにして、自分が何もしようとしないための言い訳の材料にして逃げているだけです。自分がダメであることや、うまくいかないことを人のせいにしているだけです。
自分のダメなところを克服する努力も、ダメ人間なりに持っている(かもしれない)長所を伸ばす努力も諦めているのです。
それではダメなのです。自分のことなのに他人のせいにしたり、言い訳して逃げたり…。
何とかしたい。本当は逃げたくないし、ダメな人間だと思いたくない。そのために自分が考えていることを整理しておきたかった。だからこうして書いているのです。
やりたいことがないわけではないのです。現実的かどうかを抜きに考えれば。
何かに挑戦してみたいと思うことがないわけではない。
やる前から諦めてしまうのです。「自分は◯◯だから無理だ。」、と。
「やりたいことができない人間もいるのに、俺なんかがやりたいことを考えていいわけないし、仮にやっても成功しない」、と。
なんでそんなことを考えるかといえば、過去の自分が許せないからです。「今まで努力してこなかったのに何考えてんだ。」とか、「今まで散々人に迷惑かけてきたのに何幸せになりたいなんて想像をしてるんだ」、とか思います。
言い訳して自分と向き合うことからも、これから関わっていく人に迷惑をできるだけかけないようにすることからも逃げて、自分の過去にしがみついて自分を責めて後悔して自分を罰している気になって満足してしまっているだけです。
過去の責任を取ることから逃げて、「どうせ自分が悪いんだ」と責めて自分を罰した気になるだけでは何も変わらない。
過去に起きたことはもう消せないのです。忘れるか、同じ過ちを繰り返さないようにすることしかできない。
それは地道で長く辛く、いつ報われるかもわからないし、もしかしたら報われないかもしれない。自分を責めているだけの方が楽だし、ついそちらに流れてしまう。
しかし、自分を罰した気分に浸るだけではダメだ。自分を許すかどうかは、過去を受け入れて改善するように努めて、他人からの評価を受けてようやく決まるのではないだろうか。
そうして許されなければ、まだ努力が足りないか、それだけ罪の重いことをしたということ。
過去のことを嘆いてばかりで何もしたくないとか無理とか考えないようにしなければ。
結局他人がどうだから自分は◯◯してはいけないなんてことは自分の勝手な決めつけでしかない。
自分のことを何もできないと決めつけるのもよくないし、他人のことを言い訳に使ってはいけない。
「自分は何もできない」と言い切ることにしか自信が持てず、自分を保てない。
自分の限界を勝手に決めつけて、いじけてそこから動かずうずくまっている。それに心地よさすら感じてしまう。
もっとがんばらなければ。自分を変えなければ。自分の殻に閉じこもるのをやめなければ。ここで吐き出して満足してしまうのもダメだ。
行動しなければ。自分を肯定しなければ。
最後に
甘ったれた戯言を吐き出すだけで何も解決していない。考えもまとまってない。もっと具体的に何をするか考えて書いていこう。行動しよう。
もし読んで不快になってしまった人がいたらすみませんでした。
もっと面白くて価値のあることを書けるようにしていきたいです。
明日はもっといいことが書けるようにがんばります。